― 40歳から始まった新しい挑戦 ― Vol.1:英語の必要性に気づいた日

My Story / 人生の転機

いま私は「Setouchi Ambience」というYouTubeチャンネルを運営しながら、瀬戸内の静かな風景を撮影しています。
けれど、この活動の原点を辿ると、思いがけない場所――東京のど真ん中にあったリクルートの本社オフィスに行き着きます。
あの場所で「英語ができない自分」に気づいた瞬間こそ、私の人生が海外へ向かうきっかけでした。

2004年、私は生まれ故郷の香川県高松市で無職の状態から、結婚情報誌『ゼクシィ』の広告制作ディレクターとして採用されました。
当時のゼクシィは全国的なブライダルブームの波に乗り、地方版も次々に創刊。四国版も例外ではなく、制作スタッフを増員するタイミングで私は採用されました。
10人の応募者の中から選ばれたときは、本当にうれしかったのを覚えています。

ちなみに、『ゼクシィ』は中華人民共和国・上海でも『大衆皆喜』という名前で発刊されており、現地の書店で販売されていました。

ところが、1年後に上司が変わったことで職場の空気が一変。
理想としていた環境ではなくなり、私は退職を決意しました。とはいえ、心の中には「どうしても広告ディレクターを続けたい!」という強い想いがありました。
「東京なら、同じ仕事があるはずだ」と思い、思い切って上京しました。

東京では『ゼクシィ』ではなく、より大きな市場――人材採用(求人広告)業界で広告制作の仕事を続けました。
ブライダルよりもはるかに多額の広告費が動く世界で、スピードも要求も桁違い。しかし、私には致命的な弱点がありました。人間関係を築くのが苦手だったのです。
理屈で広告を作りたい私と、“なんとなくの付き合い”で取引先と話す営業社員。しょっちゅう衝突していました(^_^;)。
それでも、「やっぱり本家リクルートで働きたい」という気持ちは消えませんでした。

2014年、ついに「フリーランスのリクルート専属広告制作ディレクター」の募集を見つけて応募。
無事採用され、念願だった東京・八重洲のリクルート本社に出入りできるようになりました。
しかし、待っていたのは長すぎる研修期間。
ほとんど無給で、まるでインターンのような日々
それでも私は、「この場所で何かを掴みたい」という思いで必死に通いました。

リクルート本社が入居しているビル(右端)。このビルの33階(だったと思う)に私が使っていたデスクがあった。

そんなある日、オフィスで配られていた社内報『かもめ』を手に取ったときのこと。
左ページは日本語、右ページは英語――全ページが完全バイリンガルで印刷されていたのです。
当時のリクルートホールディングスの売上の多くは、海外の人材紹介マーケットから生まれていると知り、私は衝撃を受けました。

「日本人でも、これからは英語ができなければ生き残れない」

そう強く感じた瞬間でした。

しかし、夢の舞台だったリクルートでの仕事は、生活が成り立たないほどの低収入。
私はやむなく故郷の香川県へ戻ることにしました。
それでも「英語力は絶対に必要になる」という確信だけは残っていました。

高松で“英語を使う仕事”を探しましたが、当時の私には英語力がまったくありません。
そこで「英語を話さなくてもいいけど、海外とつながりのある職場」を探し、その際に見つけた東証一部上場企業に派遣社員として入社することになりました。

そしてここから、私の英語独学の旅が始まったのです。


次回のVol.2では、香川での新しい職場で英語と向き合いながら、“ものづくり”を通して自分の表現を磨いていった日々をお話しします。

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