Warning: The magic method InvisibleReCaptcha\MchLib\Plugin\MchBasePublicPlugin::__wakeup() must have public visibility in /home/c6896382/public_html/setouchiambiance.online/wp-content/plugins/invisible-recaptcha/includes/plugin/MchBasePublicPlugin.php on line 37
40歳から始まった新しい挑戦 Vol.6|異国で掴んだ昇進のチャンス|誰にも見られなかった努力が報われた日 | Setouchi Ambience

― 40歳から始まった新しい挑戦 Vol.6 ― マレーシアで誰にも見られなかった努力が報われた瞬間

マレーシア・アラダマンサラの夕焼け My Story
2019年、アラダマンサラ。あの日見た夕焼けは、今も私に「まだやれる」と問いかけてきます。

私は42歳で初めて海外就職を経験しました。期待と不安を抱えてマレーシアへ渡りましたが、そこで過ごした日々は、想像以上に濃く、私の人生に大きな影響を与えました。これは、誰にも見られなかった努力が初めて評価された日の記録です。

私は42歳でマレーシアに移住し、日本企業が運営する日本語対応コールセンターに入社しました。

日本を離れる決意をした理由は、環境を変えてもう一度キャリアに挑戦したかったからです。
年齢的に遅いスタートだと分かっていましたが、それでも「人生は一度だけ。挑戦できるならやってみよう」という気持ちが強くありました。

入社初日、同じ時期に入社した新入社員は15名。
会社の人事部は私たちの生活を支えるため、提携するエージェントとともに複数のコンドミニアムの内覧ツアーまで準備してくれました。

南国の空気、慣れない英語、見知らぬ場所での新生活。不安もありましたが、同時に大きな期待もありました。

そのとき私は同年代の男性社員と生活を共にすることを提案して了承を得て、新築の「Potpourri」というコンドミニアムで共同生活を始めました。

内覧ツアーの中で、同年代の日本人男性社員と意気投合し、会社から徒歩圏内の新築コンドミニアム「Potpourri」に一緒に住むことを決めました。

初めての海外生活。
まだ不安はあるけれど、少しだけ安心感のあるスタートを切れた——
そう思っていました。

しかし、入居してわずか一週間後。
勤務後にその同居人から「話がある」と連絡を受け、近くのショッピングモールで向き合うことになりました。

彼が口にした言葉は予想外でした。

「一緒には住めない。 理由は……君がゲイだと思ったから。」

根拠は“タンクトップを着ていたから”というもので、私には理解できない理屈でした。

もちろん私はそうではありません。しかし彼はすでに結論を固めていました。

「いずれ妻をマレーシアに呼ぶつもりだから、すぐにでも部屋を出てほしい。」

一方的で、突然で、納得できない申し出でした。説得を試みても、彼の意思は変わりませんでした。

その結果、私は引っ越しからわずか一週間で部屋を追われる形となりました。

仕事にもまだ慣れない中、精神的な負担は非常に大きいものでした。

私は会社が用意した寮へ戻り、慣れない環境で再び荷解きをしながら、現実を受け止めようとしていました。

そんなとき、現地で知り合った日本人の先輩社員から「iProperty」という物件アプリを紹介してくれました。

そこからは本当に、全部自力でした。

  • 物件の検索
  • エージェントへの英語での連絡
  • 内覧の日程調整
  • 契約書の確認
  • 保証金の準備

初めての海外生活で、しかも突然一人になった状態でこれらを進めていくのは簡単ではありませんでした。

それでも私は、できるところから一つずつ進めました。

幸い、日本に好意を持ってくれる華僑の女性オーナーに出会え、とても良い条件で新しい部屋を貸してもらえることになりました。

新居に荷物を運び入れたとき、私はようやく深く息を吐くことができました。

「ここからもう一度、やり直そう。」

心からそう思えた瞬間でした。

当時、私が住んでいたコンドミニアム。H2O Residences MIZUという日本語が含まれた名称だった。

新居が決まり少し落ち着きを取り戻した頃、本格的な研修が始まりました。

しかし現実は厳しく、私はすぐに自分の実力不足を痛感することになります。

研修内容は想像以上に難しく、毎日行われるテストでも満足できる結果が出ませんでした。
同時期に入社した社員の中にはコールセンター経験者もいて、彼らは問題なく点数を伸ばしていきます。

一方で私は結果が振るわず、日に日に焦りが強くなっていきました。

「40歳を過ぎて、私は本当にここでやっていけるのだろうか。」

入社したばかりの私は、自分の可能性を疑うようになっていました。

それでも私は、諦める気持ちにはなれませんでした。

自分が置かれた状況を考えたとき、選択肢は二つしかありませんでした。

逃げるか、向き合うか。

私は、向き合うほうを選びました。

翌日から、私は同時期に入社した社員の中で最も早く会社に行き、ひとりで研修資料を復習するようになりました。

まだ外が薄暗い中で歩いて会社へ向かうと、湿気のあるマレーシアの朝の空気が肌に触れました。

オフィスに着くと、照明が半分だけついた静かな部屋で、私はパソコンを開き、前日に理解できなかった部分を繰り返し読み返しました。

この時間に誰かに会うことはほとんどありませんでした。
同時期に入社した社員の中で同じことをする人はいませんでした。

「この努力が、いつか必ず意味を持つ。」

私はそう信じていました。
根拠はありませんでしたが、自分を奮い立たせるために必要な言葉でした。

メール対応の業務を2ヶ月ほど担当した頃、定期的なフィードバック面談が行われました。

私は正直、良い結果は期待していませんでした。
研修でも実務でも、自信を持てる場面は少なかったからです。

しかし、上司が口にした結果は、私の予想を大きく超えるものでした。

「不適切対応(BAD)はゼロです。GOOD評価の数は、15人の中で2番目の好成績でしたよ。」

1位はコールセンター経験者。
コールセンター未経験で42歳の私が2位という成績。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に強い感情が込み上げてきました。

誰にも見られなかった早朝の努力が、確かに私の成長につながっていたのです。

この時、私は初めて「やってきたことは間違っていなかった」と実感しました。

さらに驚く出来事が起こったのは、その数日後でした。

日本人マネージャーから突然呼び出され、私は面談室へ向かいました。

面談室には天井から床まで届く大きな窓があり、アラダマンサラの独特の街並みが広がっていました。
日本の都市とは違う、どこか無骨で静かな景色です。

黒い机、メッシュのチェア、10畳ほどの空間。

そこで、マネージャーは真剣な表情でこう言いました。

「あなたにトレーナーになっていただきたいのです。」

私はすぐに言葉を返すことができませんでした。
信じられない気持ちが強く湧き上がったからです。

続けて、彼女は静かに言いました。

「私たちは、Nakamuraさんの努力をずっと見ていました。結果が出ず悔しい時期に、毎朝早く出社して勉強していましたよね。

また、私たちは、入社後に受けてもらった英会話クラスのレベルチェックの結果を見て、あなたの英語力が“中級レベル”であることは、事前に把握していたのです。」

この言葉が胸に響き、私は涙が浮かぶのを感じました。

彼女は私と同年代の女性マネージャーで、いつも気さくで明るい雰囲気の方でしたが、
この時だけは真剣で、私の目をまっすぐに見て話していました。

しかし、この瞬間だけは私は彼女と目を合わせられませんでした。
涙を見られたくなかったからです。

“信じられない気持ち”と“嬉しさ”が、胸の奥で複雑に混ざり合っていました。

面談が終わり外に出ると、空一面に大きな夕焼けが広がっていました。

12月のマレーシアは日本と同じように日が短く、夕暮れの訪れが早い時期でした。

湿気を含んだ空気の中で、赤とオレンジが混ざった光が街を包んでいました。

新居へ向かう道を歩きながら、私は何度も思いました。

「本当に、僕でよかったのだろうか。」

景色がいつもより鮮やかに見えました。

あの日の夕焼けは、私の人生で最も印象に残っている光景の一つです。

マレーシアでトレーナー職として働いた経験は、私のキャリアを大きく変えました。

管理職として実績を積んだことで、次の転職先であるバンコクの企業からも高い評価をいただくことができました。

もしあの時、誰にも見られなかった努力を続けていなければ、私はきっと違う人生を歩んでいたと思います。

40歳を過ぎても、キャリアは変えられます。
マレーシアでの経験は、私の未来を確実に切り拓いてくれました。

あの日、夕焼けの下で感じた「努力は必ず誰かが見ている」という確かな手応えは、今も私の中で生き続けています。
そして50歳を迎えた今、私は再び新しい挑戦の扉を叩こうとしています。
異国の地で昇進を告げられたあの日のように、もう一度、自分の人生を変える夕焼けを見に行くために。

2019年の新年に見上げた花火は、「ここから新しい人生が始まる」と思わせてくれるほど眩しく、美しく、そして優しい光でした。

けれどあの光のあとに訪れたのは、“誰にも見られなかった努力”とは種類の違う、“誰にも理解されない孤独な苦しさ”でした。

トレーナーとしての新しい肩書きは、私に自信を与えてくれた一方で、まったく別のプレッシャーや人間関係の難しさをも連れてきました。

そして私は、ついにある決断を下すことになります。
次回のVol.7では、「なぜ私は転職を考え始めたのか?」
その背景にあった葛藤と挫折を、ありのままに綴ります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました